おともさん

おともさん

10月2日の0時過ぎに子ども達全員に看取られて、主人の祖母「おとも」さんが98年という長い人生にピリオドを打ちました。
随分珍しい名前ですが、戸籍上も「とも」ではなく、「おとも」さん。
出生届けを出す際に、思わず「敬称」=「お」を名前につけてしまったのか?[E:sweat01]今になってはその真相は分かりません[E:coldsweats01]

さて、戦前、戦後、7人という子宝に恵まれた義祖父母には、27~53歳(現在)までの15人の孫と、お腹の中~20数歳(現在)までの17人?のひ孫にも恵まれました。

ここ10年程は殆ど出歩くこともなく、国立病院で元看護婦長をしていた、義母の実に“恵まれた”看護の下、時折、食べたいものを、子ども達に買ってきてもらったり、大量にお取り寄せしてもらったり…と、家内の『影のドン』として、最後までボケることもなく、ワガママ一杯の幸せな老後を過ごしていました。

私たちが時々おばあちゃんを訪ねると、「これ美味いよ」と次々に『選りすぐり』の食べ物を勧め、必ず子ども達にはお小遣いを欠かさずくださるようなおばあちゃんでした。

また聞き上手の長女や私がお邪魔すると、「ここだけの話しだよ!」と言っては、おばあちゃんの暮らしていたハナレから義父母の暮らす本宅まで丸っと聞こえそうなくらい大きな声で(なんせ超~耳が遠かったので)…[E:sweat01]よく1時間近くも昔話しを聞かせてもらいました[E:sweat02]多くの子ども達や孫が訪れる度に、毎回きっと「大きな声」で「ここだけの話し」を展開していたに違いありません(笑)[E:sweat01]

また長女が三味線を持参した時には、初老の頃に習っていたという民謡の歌本をどこからか探し出して来て、隅から隅まで自分の知っている曲を歌ってみたり、ご自分の大切にしていた三味線をくださったり(現在は次女が使っています)、音楽を通しても交流ができたおばあちゃんでもありました。

口癖は「ワシのところにはちっともお迎えがこん!」…。
そうと言っては、自分がこれまでに仲良くしてきたお友達の名前一覧表を見せては「みんな先に死んじゃった」と寂しがっていました。この紙はお棺の中に入れられ、「念願叶い」一緒に火葬されました。

またここ数年は、ご近所にデイケアセンターが出来たので、週2回そちらにお世話になっていました。
我々アテにならない孫たちよりも、優しく接してくださるデイケアセンターの職員さんたちが本当に大好きだったようで、祭壇に飾ってあったセンターで写した輝くような笑顔が、おばあちゃんのそんな気持ちを代弁しているかのようでした。

リサイタルが終わった2日後、家族4人で、シルバーウィークにおばあちゃんの顔を見に、病院に出かけたのが、私達にとっては最後となりました。すでに殆ど体も自由に動かせず、時折意識も飛んでしまうような状況の中で、私が手を振るとシッカリと手を振り替えし、夕飯が運ばれると「いいニオイだな」と言い、「起きたい」というので、皆で抱え起こし、1口2口牛丼のおつゆとほんの少しのお粥を伯母(おばあさんの長女)に食べさせてもらっていました。

ご飯を食べると今度は我々に向かって「帰れ!」…。我々に気を遣ったのか、そんな自分の姿をあまり見せたくなかったのか?それは今となっては分かりませんが、最後に我々が手を握ると、おばあちゃんの長くて大きな手も握り返してくれたような気がしました。

私がこの家に嫁いで、17年。
この数年、また特にこの1年は、リサイタルの準備やら仕事が忙しく、殆ど実家に足を運べなくなり、「横井家」の「ここだけの話」はもう二度と聞くことができませんでしたが、今となっては、懐かしいおばあちゃんとの思い出です。この「ここだけの話」を通して、おばあちゃんは、本家の長男に嫁いできた私にいつも「お母さん(義母)の事手伝ってやってくれ」と言っては「長男の妻の心得」でも伝えたかったのかな?と。そんな気がします。

看病の「か」の字も…全く義母さんや叔父さんや叔母さんたちにお願いしっぱなしで何も手伝えなかった私達。本当に申し訳ない気持ちで一杯です。最後の瞬間まで「長男の嫁」として立派に看病し続けたお母さんに、そしていろんなことを教えてくださった「おとも」おばあちゃんに「お疲れ様でした」そして「感謝」の気持ちを伝えたいと思います。
ありがとうございました。
またご会葬くださいました多くの皆様にも感謝いたします。
ありがとうございました。

P.S.10月3日、お通夜の為、蒲郡、形原温泉のローズカラーのライブに出演できず、ご共演いただく予定でした皆さんやマスター、メガトンのメンバーには大変ご迷惑をお掛け致しました。また是非ローズカラーには参加させていただきたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。

☆⌒(>。≪)nokoyokoi